私の『ヒールフリー史』(8) ~純革靴時代

初めての自力ツアーまで快調に(?)綴ってきた「私の『ヒールフリー史』」ですが、ここで壁にぶち当たりました。
テレマークを始めた頃のことは、印象が強く記憶に残っており、時期もわかっているのですが、それ以降のこととなると、記憶は曖昧で、たとえ印象に残っている出来事でも、いつ頃のことだったのかはっきりしないのです。
ああ、こんなことなら「私のテレマーク事始め」とかにしておけば良かった、などと後悔したりもしましたが、ここはあくまでもBCクロカンがメインテーマのブログなのだから、テレマークからBCクロカンに至るまでの流れを書ききらねば、と思い直し、これまでと比べると非常に大雑把な話になってしまうことを覚悟の上で、先に進ませて頂くこととしました。

さて、3月に自力初ツアーを達成した1989-90シーズンについては、サークルの記録が残っており、ゴールデンウイークが終わるまでに、会津駒ヶ岳、燧ヶ岳、再度の妙高火打山、と集中的にツアーをこなしています。
会津駒ヶ岳では、駒の小屋の管理人さんに話しかけられた会津弁が全く分からなかったこと、燧ヶ岳は、変化に富んだ斜面が最高に面白かったこと、火打山では、山頂直下の澄川源頭部の超急斜面にしびれたこと、が記憶に残っています。
まだ様々な雪質に対応できるほどのテレマーク技術は持ち合わせていませんでしたが、どの山もザラメスキーを存分に楽しんだ記憶なので、このころには、ひと冬の滑り込みの成果で、ザラメの好コンディションであればかなり自在に滑れるようになっていたのでしょう。
特に、澄川源頭部の超急斜面滑降については、翌シーズンのことだと思いこんでいたので、このシーズンにあそこを滑っていたのかと、自分でも少し驚いています。

この89-90シーズンはアルペンのインストラクターをしながらテレマークを練習するという「両刀遣い」をしていたわけですが、ここで私のテレマーク志向は明確になり、翌シーズンからはテレマーク一本となります。
1度だけ、友人とスキー場に行ったとき、着いた早々にボレーのリリースプレートにトラブルが発生して板が使えなくなり、仕方なく、アルペンのレンタルスキーを履いたことがありました。
しかし、既にテレマークに慣れていた体には、アルペンの用具の動きにくさは耐え難いものでした。
アルペンに履き替えて、一歩目、テレマークの癖で無意識にグイと片足を前に滑らせると、当然のことながら後ろ足のかかとは上がらず、足首、脛までガチガチに固められていることにすごい違和感を感じました。
テレマークのように神経を使わなくても自在に滑ることができて、転ぶこともありませんが、どうにも面白くありません。
結局、かつてあんなに楽しんだアルペンスキーが全く面白くなく、退屈な1日となってしまいました。
この経験が決定打となって、以降、私は1度もアルペンスキーを履いていません。
ということで、90-91シーズン以降はひたすらテレマークに励むことになります。

ここから90年代の中盤まで、しばらくは革靴の時代が続きます。
私は、最初に買った2バックルのアゾロ・エクストリームプロをずっと履き続けました。

最初のシーズンでスキー場内の整地されたコースはほぼどこでも滑れるようになりましたが、残されていたのは深雪とコブでした。

最初のうちは、細い板でコブに入り、しかも滑りが下手なため、よく板を折りました。
1本目のロシニョール・TRSは、気がつくとトップから50cmくらいの部分で一方の板が不自然に反っており、滑るとトップがバタバタと振動しました。つまり、芯材が折れていました。
2本目は、TRSの後継モデルで、多少太くはなっていたのですが、コブの横腹に突っ込んだときに「バキッ」という音がして、やはり芯材が折れました。

このように度々板を折っても、性懲りもなくコブ滑りには挑戦を続けましたが、細板革靴で本格的なコブ斜面を滑るのは難しく、もちろんただ降りるだけなら降りられるのですが、モーグル的な連続ターンはなかなかできるようにはなりません。

また、大学卒業から数年間、90年代の前半は、個人的な事情であまりスキーができず、特にツアーには全く行けませんでした。
私の「ヒールフリー史」の中では最も低調な時代でした。

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