私の『ヒールフリー史』(9) ~イメージの大転換

大学卒業から数年間、事情があって思うようにスキーができなかったのですが、95-96年のシーズンからまたスキーができるようになりました。

ちょうどその95年秋には結婚。
以前から、私はテレマーク、妻はアルペンで一緒にスキーに行ったことがありましたが、冗談半分で妻に「テレマークやってみる?」と聞いてみたところ、意外にも「やる」という返事。
気が変わらないうちにと用具を買いに行き、モロトの板と、アルコスの2バックルの革ブーツを購入しました。

私の方も、多分この頃だと思うのですが、3本目の板、フィッシャーのGTSスーパーを購入します。
この板には、初めてケーブルビンディングを取り付けましたが、ツアーでのかかとの上がりが悪くなるのが嫌で、3ピンに替えました。
以来、革靴用の板には3ピン、と決めています。

フィッシャー GTSスーパー
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1994年3月号の『岳人』の用具紹介記事に載っているメーカーの宣伝文には、「76mmと幅広で、深雪などまで雪質対応のいいスキー」とあります。
たしかに前の2台よりも太いという意識はありましたが、これが、当時、いわば『深雪向けファットスキー』として売り出されたものだったとは思っていませんでした。
この板は、ゲレンデにツアーに大活躍。
2006年にステップ板のブラックダイヤモンド・ポーラスターを購入するまで、ツアーは全てこの板でした。
いまだに現役で、昨年(2010年)11月の立山での初滑りも、これで行きました。

さて、95-96シーズンの話に戻りますと、妻にテレマークを勧めたものの、私には教えることができないので、私がテレマークを始めるときに教わった、妙高バックカントリースキースクールでレッスンを受けることにしました。

ついでに、私も、初テレマーク以来2度目のレッスンを受けてみました。
この時どんなレッスンを受けたのかはもう記憶にないのですが、1点だけ、今は私のように低い姿勢で滑るのは主流ではない、と言われたことが強く印象に残っています。
ただ、このときにはそれで劇的に滑りが変わったというわけでもなく、レッスンの手応えはあまりありませんでした。

しかし、翌シーズンの96年12月に発刊された「テレマークスキー テクニック」(深町計彦ほか、山と渓谷社)のドン・シェフチクさん執筆のページで、「タイト・スタンス」と「高い姿勢」が強調されているのを読み、それまでの私の「かっこいい滑り」のイメージと全く違うシェフチクさんのフォーム写真を見て、「これか!」と感銘を受けました。
リラックスして無駄のない、美しいフォーム。
その写真からは、グサグサの悪雪の中を軽快なショートターンで滑り降りる映像が浮かんでくるかのようでした。

ドン・シェフチクさんの滑り。かっくい~
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※「テレマークスキー テクニック」裏表紙より


この時から、私の目指すテレマークのイメージが、低い姿勢でポールに突っ込むレーサーの滑りから、高い姿勢で軽やかに滑るシェフチクさんの滑りへと、変わっていきました。
もっとも、それを実体験として理解し身につけるのは容易ではありません。
テレマークで困難な条件の斜面に入っていくと、減速を意識するあまり足を突っ張らせたり、体が遅れて腰が落ちたり、バランス保持のために深く沈み込んだりと、ついつい足を開いた低い姿勢に陥りがちです。そういう姿勢では、スムーズなターンを続けることはできません。
そんなとき、ふと気がついて、「タイト・スタンス」と「高い姿勢」を意識して滑ってみると、とたんに、驚くほどスムーズに滑れるようになる。
そういう経験を、深雪、悪雪、コブ、クラスト等々、様々な条件の中で何度となく繰り返して、少しずつ上達し、今も探求の途上にあるという感じです。

ところで、妻の「テレマーカー化」はどうなったのか、その顛末を。
妻は思いのほか筋が良かったようで、始めた95-96シーズン中に、ゲレンデの中級者コースを(時折転倒はするものの)滑れるまでになりました。
そこで私は調子に乗って、一度ツアーに出てみないかと誘ってみました。
すると、妻は、またまた意外にも、誘いに乗ってきたのです。

行った先は、妙高・三田原山。
万全を期して、リフトで高度を稼げる面白さ随一のコースを選んだのですが、妻が初めてツアーに出た日の雪質は、春の降雪がザラメになりきる前の、厚みのある重い湿雪で、私でもなかなかスイスイとは行かないような難しい条件でした。
そんな雪質だったので、当然というか、妻は滑っては転び、滑っては転びの繰り返しとなりました。
私も初めてTAJのツアーに参加したときは同じような状態で、夢中になって滑り転げ回る中で、テレマークの魅力にはまっていったのでした。
なので妻もそれなりに楽しんでいるのではないかと思っていたのですが、これが思い違いで、妻にとっては大変な苦行だったようです。
翌日も同じコースに行き、今度は締まったザラメに変わっていて妻もそこそこうまく滑っていたのですが、初日の印象がよほど強かったらしく、今でも「あのときは辛かった」と言われます。

その後、妻は、96年のシーズンオフに長女を妊娠し、96-97シーズンはスキーはお休み。
そして、出産を終え、スキーを再開するようになっても、妻が再びテレマークブーツを履くことはありませんでした。

しかし、妻が1シーズンだけ履いてお蔵入りになっていたアルコスのテレマークブーツは、10年あまりの時を経て、小3になった長男によって、奇跡の復活を遂げるのでした。

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